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矛盾した人間性を活写★★★マークロスコ伝記

マーク・ロスコ伝記」を読みました。

 

2段組600ページを超える大著です。

本書で著者のジェイムズ・E.B. ブレズリン 氏は完璧主義者と評されています。

関係者への膨大なインタヴューと資料の読み込みの徹底が本書をここまで分厚くした要因だと思います。

著者の地の文は主に作品の鑑賞のパートぐらいであり、それ以外は膨大な資料とインタヴューからロスコの人物像を浮かび上がらせています。

 

ロスコのあの有名な作風に至るまでの人生が伝記という体裁上重要で、完全な抽象画に達するまでで本書の紙幅の半分を擁しています。

 

その一方で、本書の冒頭はロスコの人生の絶頂期から始まります。

1961年ロスコの個展がニューヨーク近代美術館で行われます。同美術館の個展は現役世代としては初めてのことで、真にロスコが現役アーティストとしてトップに立った瞬間でした。

また、同年ケネディ大統領の就任式に出席しました。さらに現在テートモダン、DIC川村記念美術館などに分散して収蔵されている所謂シーグラムビルのための壁画プロジェクトも進行しており、ロスコは客観的には得意の絶頂でした。

一方、シーグラム絵画を受諾したときロスコは「私はこの依頼をやりがいがあると感じ、ただ意地悪をするつもりで引き受けた」と述べています。

ロスコはこれまでずっとアウトサイダーとして生きてきました。今成功し、ずっと反発してきた権威筋から認められたわけですが、それによってロスコはアウトサイダーとしてふるまえなくなることに以後ずっと苦しむことになりました。

もっともこの理解されたいと同時に理解されることを恐れるという矛盾した心理と行動が、よりロスコの謎を深めることになるのですが・・・

この頃ロスコは成功と引き換えに長年の友人だったバーネット・ニューマンクリフォード・スティルと仲たがいし、またアンディ・ウォーホルをはじめとしたポップアーティストの活躍に脅え、精神的に疲弊していました。

ロスコは生まれた時はマーカス・ロスコウィッツという名前でした。

現在はロシアの西に位置するラトビアのドヴィンスクという町の出身です。

改名したのはロスコがユダヤ人で、移民先のアメリカにおいてもユダヤ人迫害の恐れがあり、ユダヤ風の姓を隠すためでした。

もっともアメリカのポートランドにいる親類がロスと名乗ったのに対し、一人ニューヨークに住むマーカスだけがマーク・ロスコと名乗っています。

ロスコという姓はどこの地域も彷彿させない性であるらしく、ここでも他者との距離感に矛盾した感情を抱くロスコの心情が現れています。

 

ロスコの絵は孤独、喪失、拡散と同時に温かみを感じるという矛盾した印象を受けます。

ロスコ自身も矛盾に満ちた性格をしており、本書はそれを丹念に描き出しています。本書では移植という言葉が何度も出てきます。自らの意志を無視して父親によって移民させされた(しかも移民直後、父親は亡くなっています。一方移民していなければ故郷で虐殺されていた可能性が高いことも本書で触れられています)ことがロスコにとって後々まで喪失感として残り(その割にはその後一度故郷を訪れていませんが)、自らの絵画で埋め尽くされた空間を作ることにより、ロスコは場を作りたかったと本書は述べています。

ロスコが他者の絵と並べて展示されることを嫌ったことは有名ですが、他にもロスコは絵を展示することに色々注文を付けています。部屋の形状、絵と絵の間隔(空間を埋め尽くしたいので間隔は基本狭いほどいい)、壁の色、絵を展示する高さ、そしてなにより照明にこだわりがありました。

ロスコは展覧会場で照明を消して回った(そしてロスコが返った後画廊主が点けて回った)という逸話があるように、非常に暗い環境で作品を鑑賞してほしかったようです。

これはロスコ自身のアトリエの環境でもありました。その環境で作品を見ると、絵が徐々に浮かび上がってくる、迫ってくる体験ができ、鑑賞には理想的な環境という証言もあります。

DIC川村記念美術館のロスコ・ルームはロスコの死後作られた部屋ですが、ロスコが展示してほしかった空間を再現したとしています。

 

ロスコは自らの作品を子供か自分の分身のように考えており、売った絵画を転売することは自分を否定されたように感じたといいます。

そのため絵を売ることも展示することも慎重で、展覧会をすれば毎日のように会場に出かけ、朝から晩まで見守っていたといいます。

 

友人の一人がロスコを苦しむようにできていたと評したように、世間に受け入れられたロスコは誤解されたと感じ、それがシーグラム絵画よりあとの暗い色調の絵画になっていきます。

温かみを感じ、人気の高いシリーズを放棄し、最晩年の作品はヒューストンのロスコチャペルのように、グレー・オン・ブラウン、さらにはブラック・オン・グレーのようにモノクロームとさらなる抽象化が進むことになります。

 

死の2年ほど前には長年の喫煙と飲酒のため身体を壊し、余命いくばくもないと宣告されたようです。このことが自殺に繋がるとともに、作風の変化にも繋がっていきます。

 

画家の伝記ではありますが、人間という矛盾した存在を扱った書として極めて興味深い内容でした。★★★

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