和多利志津子、恵津子、浩一さんの「夢みる美術館計画 ワタリウム美術館の仕事術」を読みました。
この本は和多利さん一家の私立美術館である「ワタリウム美術館」ができるまでと、その展覧会の記録を一冊にまとめた本です。
僕の中ではワタリウム美術館のイメージは
といったところでしょうか。良い意味でも悪い意味でも強烈なキャラ立ちの美術館です。無色透明で一つぐらい無くなってもいくらでも代用可能に見える(は言い過ぎかもしれませんが、現に東京の美術館は都美術館→写真美術館→現代美術館と順に休館工事してます)公立美術館とは一線を画する存在です。
本書でその個性的な運営の謎が明らかになります。
google mapで見ても分かる通り、ワタリウム美術館の敷地は見事な二等辺三角形。しかもかなり潰れた三角形であり、広い展示空間の実現は実質不可能です。
ですがこの悪条件を逆手にとって、超個性空間を実現しました。このヘンテコな空間なしにはワタリウムの展示の数々は実現しません。
遠目にはストライプが3つの面全てを覆うミニマムなデザインですが、実際には正面向かって左が外部階段になっています。こうすることで法令上の避難階段として有効に働くと共に、階段を全体のデザインの中に取り込むことに成功しています。
なにぶん都心の一等地なので作品の搬出入も一苦労です。そのための専用の動線や入口を設けるのが困難なことから、正面2階の大きな一枚ガラスはディスプレイであると共に、搬入口にもなっています。機能とデザインが高度に融合した形です。
内観は建物の構造がむき出しのこれまた異様な空間。
容積的にも設備的にも制限の強い展示施設ですが、それが返ってそこでしか見れない展示を実現してます。ワタリウム開館後、ホワイトキューブの美術館が全国に大量に出現したことを思うと、あらかじめ逆張りしたワタリウムは先見の明があったと言えます。
島袋道浩 「象のいる星」
展示によっては階段や屋上も利用されます。市立美術館だからこそ、ごく自然に限りある資源を使い尽くすという発想が生まれます。
ワタリウムの展示を個性的にしている要因として現代美術の範疇に収まらない展示があります。和多利さんは美術館開館以前から同地でギャラリーをやっていたので現代美術は詳しいのでしょうが、開館後はその領域をどんどん拡大させていきました。
本書の例で言うとカールステン・ニコライは音楽、イサム・ノグチは庭園、南方熊楠は自然科学、ダライ・ラマ14世は思想、ファブリス・イーベルは農業などです。
しかもそれらの時には難解な展示を建築家などに依頼し分かりやすく、かつ個性的に展開しています。
特に2,3階の吹き抜け空間は毎回それを生かす展示が行われています。
和多利さん自身が専門分野に拘泥せず、楽しんで勉強しながら展覧会を作っていっていることがよく分かります。また海外のアーティストやキュレーターを招聘する展示が多いのですが、西洋かぶれにならずにじっくりと時間をかけて日本、東京ならではの展覧会をやろうとしている姿勢も素晴らしいです。
最近の展示ではあまりそういうイメージはありませんが、ワタリウムは美術館の外に出ての活動も積極的です。
ワタリウム道路向かいに作品が残るキース・ヘリングの作品はギャラリー時代のワタリウムの招聘で無名時代に個展を行い、路上に数々の作品を描いた名残です。
かつてはワタリウムで審査通過した作品を石川県鶴来町に送って展示する「現代美術一日大学」や、全国で作品を作って東京各所に展示する「水の波紋95」などはそのもっともラディカルな例です。ワタリウムが深くかかわったリボーン・アートフィスティバルもその派生だといえます。
と、ワタリウムのいいところばかり述べましたが、もちろん問題点もあります。その最たるものはやはり狭い割に高いということでしょう。「作品数が少ない、入場料を返して欲しい」と言った客に対して、「日本の現代美術の招来は多難」と嘆くのはどうなのか?作品が少なくてもいいなら無料のギャラリーの方が得であり、私立美術館の存在意義の否定につながります。ワタリウムの存在によって、一定の金額で一定の展示をやる公設美術館のありがたみが逆に浮き彫りになるという効果もあるようです。
とはいえ本書は色々美術館の経営や展示、建物について色々考えさせれる良書です。ナンコレ度★