• 日々観た展覧会や関連書籍の批評をしていきます。

★★★9.11の標的は如何に建てられたか?建築家ミノル・ヤマサキの生涯

9.11で破壊されたニューヨークの世界貿易センタービル(以下WTC)を設計した日系アメリカ人、ミノルヤマサキの伝記「9.11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯」を読みました。

世界貿易センタービルだけでなく、世界中に大規模建築を作った偉大な建築家ですが、建築業界では評判は芳しくありません。またヤマサキの言葉に

「建築は人に畏怖の念を抱かせるものであってはならない。見て美しく、触れて優しく、人を抱くものでなくてはならない。」

というものがあります。しかしWTCをはじめ、彼は生涯にその言葉とは真逆の建物を多く設計しました。

その辺りの謎を読み解きたく、手に取りました。ここでは

①生い立ちと差別との闘い

②WTCを巡る闘い

③晩年の和解

と3章に分けてその生涯を見ていきたいと思います。

 

①生い立ちと差別との闘い

 

ミノル・ヤマサキは渡米した山崎常次郎の子として誕生します。常次郎は飛び級するほど頭がいいと共に勤勉で、渡米後も地道に収入を増やし中流以上の生活を手に入れます。しかしその仕事は靴屋さんの倉庫係で、日系人であるために店頭に立てないという差別を受け続けていました。

常次郎はミノルを大学に行かせ、その飛躍の夢を時代に託します。しかしそのミノル自身も没後キリスト系の墓地に葬ってもらえないなど、生涯差別が付きまといました。一方、WTCの設計は貿易の自由化の精神の元、あえて日系人のミノルが選ばれた側面もあったようです。

このような生い立ちはミノルの精神構造にも深い影響を及ぼします。這い上がっていくためにミノルは人たらしの名人となり、「ヤマと呼んでくれ」と言って多くの人と気さくに付き合い、設計事務所のスタッフにもその民主的な雰囲気は評判が良かったようです。この性格はプレゼンの際クライアントの心をつかむのにも大いに役立ち、豊臣秀吉を思い出させます。女好きで4回も結婚し、事務所に美女を大量に採用したことも秀吉と共通します。

 

ヤマが独立後すぐに手掛けた仕事が「ブルーイット・アイゴー」という団地群です。

ヤマは公園や共同スペースを多く設け住民の生活向上に努めましたが、スラム街に忽然と現れるモダンな団地は需要が無く(アメリカのセレブはスラムと離れたところに住むので)、荒廃した挙句16年後に爆破解体されます。

団地はヤマの納得のいくものにはなりませんでしたが、これをきっかけに大規模プロジェクトが次々に舞い込みます。しかしそれは同時に「美しく優しい建物を作りたい」というヤマの生涯の戦いの始まりでもありました。

ヤマが初期に設計した建物で僕が気に入ったのは「レイノルズメタルデトロイト支社」です。

黄金に輝く箱が宙に浮いているかのような効果を狙ったこの建物、近づくとアルミニウム製の金の輪が日よけとして付いているのが分かります。

これはアルミニウム加工会社の技術を示すことにもなり、しかも同じパーツを大量に使うことでコスト削減にもなります。このようにヤマは「クライアントを喜ばせ」、「みんなが美しいと思える建物を」、「安く作る」ことが非常に上手でした。しかしこの分かりやすさや工業製品っぽさが建築評論家に嫌われる要因にもなりました。今日でも巨匠と呼ばれるミース・ファン・デル・ローエやフランク・ロイド・ライトはアート作品としての評価は高いものの、その費用や構造上の無駄は見過ごされがちです。

 

2.WTCを巡る闘い

「21世紀世界博連邦科学館」など国家レベルの仕事を受注するようになったヤマに前代未聞の超巨大プロジェクトが舞い込みます。

当初政府の港湾局は前述のミースやヤマがライバル視したイオ・ミン・ペイなど多くの候補を検討したようです。その中でどうしてヤマが選ばれたのでしょうか?

僕が思うにヤマは他のアーティスト肌の建築家と違って企業ビルなどで堅実な設計を行い、しかもクライアントとしっかりコミュニケーションがとれていたので、産業界の評価が高かったせいだと思います。

港湾局はヤマを動かしやすい建築家だと思ったようです。しかしヤマはデザインには完璧を求める人で、以後ヤマと港湾局の長い闘いが続くことになります。

ヤマがWTCで特にこだわったポイントは2つあります。1つ目は窓の幅です。

港湾局は窓間の柱を減らして高い眺望を得るとともに、コスト削減に努めようとしました。一方ヤマは窓幅を小さくして柱で垂直性を強調することを主張しました。

ヤマの主張が通ったことにより、WTCのプロポーションが引き立ち、遠目に見たときの彫刻的な美しさを獲得しました。

ちなみにこのビルの足元から3つ又に分かれて柱が伸びる形は、同時に低層部でアーチを作っています。ヤマはイスラムのアーチを多くの建物で採用しており、タージ・マハルにも多くの影響を受けたといいます。

「21世紀世界博連邦科学館」

のちにイスラム圏で多くの建物も設計したヤマのWTCが、没後イスラムの攻撃で倒壊するのは皮肉としか言いようがありません。

 

またツインタワーのアイデアは2つの棟がお互い影になって刻一刻と建物の表情に変化を与え、見るたびに新しい発見のある建物に仕上がりました。

 

ヤマがこだわったもう一つのポイントはWTCの足元の空間です。どれほどビルが高層化しようとも、足元に人々の憩いの場を提供できればヒューマンスケールの建物は実現可能と考えたのです。

しかしこれはうまくいきませんでした。彫刻を置いたり工夫は凝らしたのですが、ビル風が強く、人々が寄り付かない場所になっていしまいました。

東京都庁足元の彫刻広場

このエピソードを聞いて思い浮かべたのが東京都庁です。丹下健三氏の代表作ともいえるこの建物は遠景にはプロポーションもファザードのデザインも美しいですが、近づくと足元の彫刻広場はいつも閑散としています。どうやらこの課題は現代でも完全には解決していないようです。

ちなみにこれが倒壊後のWTC跡地です。倒壊後のほうが祈りの場として人々が集まる空間になっているようです。真ん中にあるのはWTCの地下基礎を含めて9.11の記録を展示する博物館です。ここでは今日でもWTCの絵葉書などが売られており、NY市民に愛されていたことを示しています。

 

3.晩年の和解

WTCのあともヤマは多くの建物を設計しましたが、ほとんどヤマらしいヒューマンスケールのデザインが見られません。WTC後は新しいアイデアが枯渇したのではないかといわれています。

一方私生活では3度結婚した挙句、4度目に最初の妻であるテリと再婚します。また一度は決裂した3人の子どもや弟とも晩年は和解しています。私生活においても完璧を求めたヤマも仕事に疲れ、家族愛を求めていたようです。

ヤマは家族や社員を愛し多くを与えると同時に、過剰な期待を込めて厳しく接することも多かったです。またビジネスマンとしてある日突然十数年も共に働いた社員をクビにするリアリストでもありました。このような精神の複雑さも秀吉を思わせます。

 

一方、晩年の代表作は日本の新宗教「神慈秀明会」の大礼拝堂があげられます。ヤマは自由な設計ができる最後の機会と考え、全精力をかけて挑みました。

非公開ですが、前述のペイの設計したMIHO MUSEUMから見ることができます。富士山をイメージしたという逆アーチ構造はヤマらしい庶民的なサービス精神が溢れています。また宗教施設だけあって狭い通路から礼拝堂の大空間に出る瞬間の演出や、座席に説法がよく聞こえるようスピーカーが設けられてたり、宗教施設の目的に適った工夫も満載です。

また建物の強靭さにも以上にこだわったようです。ヤマの建物は多くが取り壊されたり、管理維持が不十分なものがほとんどです。ヤマはこの建物が何百年も残ることを願って設計しました。

 

まとめ

1.ヒューマンスケールの建築の難しさを考える

2.今太閤にも例えられるヤマの複雑な精神の葛藤を読む

以上2点が本書の読みどころです。ナンコレ度★★

 

コメントを残す