トム・フォード監督の映画「ノクタナール・アニマルズ」を見ました。
【ストーリー】現代アートの学芸員を務めるスーザンの元に小説家志望であり19年前に別れた元夫エドワードから「夜の獣たち」という小説が送られてきます。小説世界にのめり込んだスーザンは徐々に現実世界と区別がつかなくなり・・・
この作品、公開前からダミアン・ハースト、アレクサンダー・カルーダーなど現代アートが数を多く登場することで、話題になっていました。
で、実際見てみると、確かに数々の現代アートが登場しますが、ほとんどは家の装飾程度で、特に重要な役割はありませんでした。上記のハーストのホルムアルデヒド漬けはじっくり映っていてかなりインパクトがありましたが。でも一番印象に残ったのは冒頭に登場する、本作のオリジナル作品と思われる、極度の肥満体系の女性が半裸で花火を持って踊るという不気味な映像作品です。
この後、シーンは主人公であるスーザンが企画した個展に移り、同じく太った女性がうつ伏せになった彫刻作品が登場します。上の写真の後ろの人物が作品です。
ではこの映画における、アート作品は役割は何だったのでしょうか?結論から言うと、この作品における現代アートの役割は階級制と虚構性を強調したかったからだと考えられます。
本作のストーリーの主軸のひとつにスーザンとその元夫エドワードのすれ違いがあります。そしてその原因のひとつにスーザンとエドワードの身分の違いが上げられています。
そして美術館に来る観客には知られていませんが、美術館内には明確な階級があります。それは大まかに言って以下のようなものです。
原田マハさんの小説「楽園のカンヴァス」の主人公は展示室の監視員ですが、監視員は展示の内容には全く触れることができません。
チーフキュリエーターや館長になれるのはごく一部ですが、館長は天下りの役人が務めることもあります。
さらに個人画廊となると人脈や資産が必要になるので、億万長者の子女が突然大画廊のオーナーになることも多々あります。
また上記のハーストなどもダイヤモンドを埋め込んだ髑髏など金のかかる作風で有名で、一見才能のみで勝ち上がっていけそうなアート界でも資産が必要なことを示すアーティストでもあります。
スーザンも銀の匙を加えて生まれてきており、美術関係者にもかなりチヤホヤされています。努力や才能より出自や資産がものを言うアート業界の冷たい側面は、作中の雰囲気に合っています。
作中でスーザンはエドワードから送られてきた小説を読むうちに現実と虚構の区別が徐々に曖昧になってきます。また現在の時間軸におけるエドワードが手紙やメールでのみスーザンとやり取りし、なかなか画面に登場しないことも、不安感を煽ります。
現代アートにおいても、「虚構」は付き纏います。デュシャンの「泉」やもの派の作品群などは、材料費においてもテクニックにおいても何の価値も見いだせず、アイデアのみに価値を置くという考え方で成り立っています。
虚構といえば、スーザンの家はミース・ファンデル・ローエみたいなモダン住居だし、勤務先も谷口吉生のニューヨーク近代美術館のようなモダンバリバリの内装で、ほとんど生活感がありません。そして現実パートはほとんどそのような空間のみで進みます。
エドワードとの過去篇や、エドワードの小説内での人間模様に較べて、現実パートの人間関係は非常にそっけなく、物語が進むにつれどんどん現実感がなくなっていきます。その結論としてのラストシーンは僕は結構気に入ってます。
現代アートが見たい人には不満かも知れませんが、アートの虚構性を考えたい人は結構有益かも知れません。