東京国立近代美術館(中央区)「アジアにめざめたら」【2018.10.10 – 12.24】を見てきました。
1960~1990年代までのアジアの初期現代アートを振り返る展覧会です。
中国、韓国、インド、タイ、インドネシア、シンガポール、フィリピンなどの作家は未知のものばかりで、おそらく日本初公開の作品も多かったのではないでしょうか?
一方日本の作家も含まれており、こちらは既知のものがほとんどですが、それでも日本で最も先鋭的な活動をしていた人ばかりで、色んな意味でレアな展覧会でした。
アジア云々を抜きにしても現代アートとは?を考えながら展開していったこの時期の作品は大変面白く、また勉強にもなりました。自分なりにこの展覧会のテーマ3つ(①政治の季節②新しいアートの模索③日本の先鋭美術)を考えて見たので、それに沿って作品を振り返ってみたいと思います。
この時代のアジアは民主化が大きく進んだ時代でした。日本でも多くの政治的メッセージを込めた作品が多く紹介されていましたが、植民地支配も軍事独裁も無かった日本と他のアジア諸国ではおのずと迫力がまるで違います。
このジャンルでは軍事独裁下での韓国の作品が印象的でした。
切り抜きだらけの新聞で検閲を皮肉ったソン・ヌンギョン「1974年6月1日以降の新聞」は直接的な政権批判です。一方、キム・グリム「1/24秒の意味」やミン・ジョンギ「映画を見て満足したK氏」などは開発型独裁下での所得向上に疑問を挟んでいます。
また、張培力「水—辭海標準版」は一見真剣にニュースを読み上げているアナウンサーが実は辞書の「水」の項目を読み上げているに過ぎないという作品です。現代まで続く報道機関への疑問を呈しています。
一方中国では天安門事件を題材にしたエレン・バウ「史上最高のテレビゲーム」が出品されています。
戒厳令を正当化する首相の演説を露骨に茶化しており、ユーモアのセンスはアイウェイウェイに通じるものがあります。
日本と同様、アジアにおいても現代アートとは西洋を手本にしたものでした。
アビナン・ボーサヤーナン「バンコクのにわとりに美術を説明する方法」は色んな鳥に現代アートの講義をしている動画作品です。教材になっているのはモナリザであり、アジアで西洋芸術を踏襲する滑稽さを皮肉っています。
そうした中で西洋に先駆けて先鋭的な表現も登場しました。会場内にテープで四角形を作るだけのチェオ・チャイヒエン「5フィート×5フィート(シンガポール川)」、川に燃やしたキャンバスを投じるイ・スンテク「燃えているキャンバス」などがその好例です。
またイ・ガンソ「消滅 ギャラリー内の酒場」は美術館のホワイトキューブに疑問を呈した作品で、似たような試みは日本でも西洋でも行われました。
ワサン・シッティケート「私の頭の上のブーツ」「自分を励ます」はどちらも経済成長後の都市で制作された動画作品で、政治の季節後の作品と言えそうです。
同じころの日本においては戦後直後こそ山下菊二、中村宏など多くの社会派アートが制作されましたが・・・
安保闘争以降は政治的なアートは急速に廃れます。
メッセージは不明確で、素材も特殊なものが多く使われます。
特に展覧会後半ではゼロ次元、松澤宥、プレイなど国内で最も過激で先鋭的なアーティストが多数登場します。
全裸で踊り狂うゼロ次元、作品を超えた精神世界に踏み込んだ松澤宥の音会イベント、もはや芸術が関係ないプレイと、アジアの前衛に引っ張られて、日本のアーティストももっとも先鋭的なメンバーが集まり、非常に濃い展覧会になっています。
面白いビデオアートが大量に出品されているのはいいのですが、座ってゆっくり見れるような配慮がほとんど無かったのが唯一の欠点です。国立美術館は土地も資金もあるのだから、民間に先駆けてビデオアートを見る環境を整えてほしいです。★★★
★「日/中/韓パフォーマンスとメディア 70’s – 90’s」 – 博司のナンコレ美術体験2018年11月4日 11:12 AM /
[…] 同時期に国立近代美術館でも展示されている韓国のパク・ヒョンギの作品は写真と映像などを組み合わせているのでまだ取り繕うしまがありますが・・・・ […]